町田市に遺る鎌倉古道の現況

町田市北部丘陵地域内に遺る「伝・鎌倉古道」の各エリアの現況について報告します。

各エリアの場所は、下記のMAPを参照ください。

★A地区

1. 最北部の多摩市貝取・南野との境界以南エリア=A地区

  現状では発掘調査は行われていないために、現地に於いては有効な遺構把握の方法は「目視観察」と「前後地域の推定路を基にした位置推定」が判断の基準になります。しかし当該地内には数か所に於いて地下の埋蔵状況が露出していることによる遺構観察が可能であり、より学術的な推定が可能な地域となっています。

 

(写真:恵泉女学園大学横、

  妙櫻寺の近くから入る山道:”鎌倉古道跡”の入口)

 

★B地区

2.小野路・宿地区の東尾根(後・地区)エリア=B地区

  多摩丘陵の最高地である尾根」と、そこから分かれて南の小野路川流域方面にかけて伸びる尾根があります。多摩市側の尾根は「多摩川水系と鶴見川水系の分水界」にあたるため、武蔵野と原町田方面や相模野の間を横断する中世戦乱時の武士兵団の移動に対する監視や防戦を目的とした「関」や「砦」の類の具体的な存在が推定されます。

 当該地は調整区域が多く開発が規制されてきたエリアだけに、公的な発掘調査や遺構調査は行われていないが、道路遺構の断面構造(小穴列、硬化層)がわずかながら観察できる場所があります。 

 

(写真:関屋の切通し、中世の関所跡ではなかったかと考えられています。一帯では中世の板碑が多く発見されています。)

★C地区

3.野津田公園北端~芝溝街道エリア=C地区

 津田公園東側地区の現・野球場付近に於いて、球場建設前の1991年10月~1997年3月まで(整理期間を含む)町田市教育委員会から委託された「町田市野津田上の原遺跡調査会」埋蔵文化財調査を実施し、「中世の鎌倉街道跡」と推定される道路状遺」を検出しています。当時検出された1号道路状遺構は、最大幅が古代国道級の12メートルもあり、それらに特徴的な連続するピット列は1~3号道路すべてに顕著に刻まれ国内の遺跡で最も多い1千箇所の小穴が見つかっています。

 当時の現場では貴重な交通遺跡の遺構を破壊しないために、現地の調査終了段階において、現状そのまま覆土して埋蔵保存されています。

 

(写真:野津田上野原遺跡、覆土された状態でその後の保存対策は進んでいません。)

★D地区

4.七国山エリア=D地区

 野津田公園南側入口付近交差点から鶴見川側へ芝溝街道を渡った公園内~丸山橋~町田市の史跡「鎌倉井戸」~ダリヤ園手前の山崎境尾根入口までの範囲です。 遺構は地下にも埋蔵されている可能性がありますが、鶴見川氾濫の影響をどの程度受けたかは不明です。

 丸山橋から南に進む両側に削り壁が昔からあり、近世以降の開削を受けたものの、鎌倉古道跡は中央の畑地の中から七国山下の民家裏手敷地内~七国山山頂付近までおよそルートが認知されます。 また、鎌倉井戸から南は道が二つに分かれており、今井谷戸に下る掘割上の道が「鎌倉古道・成瀬ルート」で、山崎団地尾根方向にわかれる道が「鎌倉古道・原町田ルート」になります。

 前者は、ひなた村前から本町田養運寺前を経て成瀬、長津田~二俣川~戸塚~大船~北鎌倉~鎌倉・巨福呂坂口ルート。

 後者は、山崎町と本町田町の境界尾根~旧本町田中学校東側~一色の台地(スポーツ公園)~本町田菅原神社(井出ノ沢伝承地付近)~原町田~藤沢~鎌倉・化粧坂口ルート。

 

(写真:七国山の鎌倉井戸、新田義貞が馬に水を飲ませる為に掘らせたという伝説の井戸、今は再現した井戸枠と石碑が残っています。)

 

★E地区

5.山崎団地境の尾根~本町田菅原神社に至るエリア=E地区

 史跡「鎌倉井戸」付近で二つに分岐した鎌倉古道の本路は、山崎境尾根を進む原町田ルートであったと考えられます。その理由は、今井谷戸に一旦降りてしまった場合に敵に囲まれても逃げることは難しく、軍事街道でもあった鎌倉街道の利点には合致し難いからです。薬師台団地方面から進軍してくる敵が今井谷戸には集まり易いことからも本来の、安全でかつ見晴らしが良く直線的に移動できる鎌倉古道は山崎団地脇の尾根ルートであったと考えらます。

 原町田ルートは高尾や相原方面から続く「鎌倉街道・山ノ道と合流し、原町田宿の原型が形成されました。

 多くは該当道路部分が舗装されていますが、道路敷部分で遺構と思われれ空閑地が見られます。

 

(写真:二つの古道(鎌倉街道・上道と山ノ道)が交差する原町田Y字交差点です。)

    (左側:鎌倉街道・山ノ道、右側:鎌倉街道・上道)